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「大和川国際飛行場」大阪南港、幻の国際空港計画

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現在は「大阪国際空港」といいつつ、実際は主要部が兵庫県伊丹市に所在し、すでに国際線の発着もない伊丹空港。昔から「大阪だけど伊丹」だったと思われがちですが、実際には戦前、文字通り大阪市にも空港がありました。その名も「木津川飛行場」。現在の大正区に存在した、水陸共用の空港です。

そしてこの木津川飛行場だけではなく、「伊丹に対する関空」のように大阪(しかも市内)に国際飛行場を追加で建設する計画も存在していました。

便利そうなのに、なぜ木津川飛行場は伊丹へ遠のいたのか。なぜ戦前のハブ空港計画は頓挫したのか。

……詳しくはのぶさんがまとめてくれそうなので、ここではそれについての自分の知っている話と、ネットで簡単に見つかる資料を整理しておこうと思います。

追記:めちゃくちゃわかりやすくまとめてくれた記事がこちら↓

parupuntenobu.hatenablog.jp

 


注意!

この記事は雑記です。視点は主観満載。内容を信じるか信じないかはあなた次第です。

あと以下は校正が面倒なのでデアル調になります。

今回の経緯

 

この話が表に出たのは、さきほど上で紹介したのぶ大先生のツイート。これをポチポチ書いている時点で86RTと、ニッチな話題のわりに話題を呼んでいる。

一方の私がこの話を知ったのは、じつは半年前のことになる。このブログのメイン記事の一つ(二個しかまだ無いが)である京阪のアレを調べる最中、たまたま大正区の歴史資料*1に行き当たり、そこでたった一文だけではあるが「大和川尻飛行場」の存在を確認した。ただ私はそこまで南港の地理に強くないため、当時は「隣接地に拡張するんか」と理解していた。 

そんな理解でぼんやりと過ごして半年。のぶ大先生のツイートでピシャリと頬を張られることになったのが本日である。
どれほど衝撃だったか。上記ツイートなどから簡単に説明すると、大和川尻飛行場について、世間に流布されているのはなんとこれっぽっち。

大阪の南港のどこか、大和川尻に国際飛行場を作る計画が有ったらしいよ。

時期?分からん。場所?分からん。資料?無いぞ。

「”幻の”国際飛行場」! めちゃくちゃ胸躍る話。

しかも場所は大阪市内。都合のいいことに(そして私の頭は悪いことに)、半年前にその手がかりはしかと記憶している。そんなわけで、仕事そっちのけで10分ほどPCにかじりついてググり、昼休みに図書館に突撃して得たのが以下の情報である。

 

「狭くて煙霧が多い」木津川尻

で、そんな大和川尻飛行場について語る前に、その発端である木津川飛行場について軽く皆さんにジャブを入れておく。

木津川飛行場が存在したのは、大阪市大正区船町2丁目、以下の地図*2で塗りつぶされたあたりに相当する。東西720m、南北400mの滑走区域を持つ飛行場だったらしい*3。現在は中山製鋼所第四工場と空き地が広がる典型的な港湾の一区画になっていて、同工場には飛行機の格納庫が残っているとかいないとか。交通で言えば、運河を挟んで北側の鶴町に大阪シティバスが走行しているほか、一応は大阪メトロ長堀鶴見緑地線延伸計画も存在する。

木津川飛行場@築港計画

1926年時点の築港計画。下側の「ワ」が木津川飛行場。まさか力不足になるとは思っていなかったのか、同飛行場を国際飛行場とする気だったようだ。

*4*5

また市内に存在した飛行場ということも有って、廃港から数十年経った今でもその跡地には石碑が存在し、往時を偲ぶことが出来る。その石碑の説明文がわかりやすいので、以下に引用する。

木津川飛行場

わが国の近代航空技術は大正七年(一九一八)ごろから急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。大正一一年からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正一二年ごろからです。昭和二年(一九二七)に着工し、昭和四年には未完成のまま東京・大阪・福岡間に一日一往復の定期旅客便が就航しました。しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であったため、昭和九年の八尾空港、一四年の伊丹空港完成により、その役割を終え、十四年には閉鎖されました。

大阪市教育委員会

【石碑の説明板】

 

  • 1927年に着工、1929年に供用開始
  • 市街地からの交通が悪い
  • 雨天閉鎖レベルで地盤が悪い
  • 1939年廃港

廃止の理由を書いているから当たり前といえば当たり前だが、なんともデメリットの目立つ空港である。また、飛行場が所在した大正区の資料*6には、もう少し詳しい経緯が載っていた。

 

木津川飛行場

石碑横に掲示された往時の写真

 

飛行場熱の高まりから大正 9 年逓信省に新設された航空局は、大正区船町の 231,000 ㎡(軍用地と市有地)を飛行場用地に内定した。大正15 年から拡張整備にかかり昭和 3 年 3 月、389,400 ㎡の整備を終わり、昭和 4 年 4 月から公共の木津川飛行場として供用を開始した。
日本航空輸送会社が大阪と名古屋、福岡間に毎日 2往復、日本航空輸送研究所が大阪と高松、白浜間に週末一往復運行、旅客、貨物、郵便輸送にあたった。次々増便し昭和 13 年の年間発着は定期 5,107 回、不定期 3,676 回、旅客 10,124 人、取扱貨物 38,700 余㎏、郵便 97,700 ㎏で、国内でトップクラスにあった。

(中略)

逓信省は、予備飛行場を昭和 14 年 1 月兵庫県伊丹市に開設、次第に国際飛行場として発展するにつれ、木津川飛行場は衰退した。なお、木津川飛行場では陸上機が就航する以前に、大正 12 年 7 月から日本航空会社が川崎機械製作所から施設を譲り受け、水上機を大阪~別府間に就航させていた。

【大正ガイドブック *7

 

微妙に石碑と説明が合わないが、おそらくこの説明は「年度」が「年」と誤記されていると思われる*8。1923年からの水上機路線、1929年からの陸上機路線、そして1939年の廃港。その廃港寸前の1938年ですら8000回近い発着が有ったというのだから、どれほど過密状態だったのだろうか*9。しかも水上機をクレーンで吊り上げるなど、現在では無いオペレーションをこなしてこの回数であるから、想像以上の忙しさがあったことがうかがえる。

木津川飛行場水上機
木津川飛行場陸上機
同ガイドブックに掲載されている写真。水陸共用なのが分かる。

南港の飛行場案18万坪

なんやかんやありつつ、日本有数の空港に成長した木津川飛行場。しかしその面積は11万坪に過ぎず、のちの東京国際空港である羽田飛行場が50万坪で設計されたのに比べれば、あまりにも手狭であった。また各資料をまとめると、以下のような問題が有った。

  • 手狭
  • 周辺の工場の煙霧がかかる
  • それゆえに新京、北京、南京などの大陸行きの急行便に素通りされていた*10
  • 沖合に南港が築港されると機能を損なう*11

もはや26年計画当初の「国際飛行場」とは呼べない状況である。素通りというオブラートゼロの表現には笑ってしまった。しかもこれらの苦情は市民ではなく、運用者の航空局から直々に「都心から遠いうえ周辺工場の煙霧に悩まされ」と大阪市に伝達されている。そんなわけで1931年9月に大阪市は南港の築港計画を修正し、南港の外縁部ギリギリに修築される大和川埋立地への国際空港をつくる「大和川国際飛行場」計画を立案する。

場所は木津川飛行場から南へ渡ってすぐの埋立地南港第四号埋立地*12を116万4330平方メートル *13=およそ35万坪に拡張し、そこに59万平方メートル*14=およそ18万坪の飛行場を置く計画だった*15。この計画は1933年7月に速やかに実行に移され、予算520万円と10年の工期が弾き出された

当時の新聞記事は「飛躍・世界の港に」と銘打ってこう紹介している。

南港修築計画により国際飛行場の大拡張大型船舶の入口繋留を容易ならしむる為の海底大浚渫等が行われるので、完成の暁は大阪港は面目一新、国際的港湾としての誇りをみせるであろう

【大阪時事新報 1932.8.18 (昭和7)】

 *16

大阪港第2次修築更正計画図

大阪港第2次修築更正計画図。中央に国際飛行場、下方に飛行場移転予定地の字が見える

*17

 

阪神国際水陸飛行場を巡る泥沼の争い

この大和川尻の国際飛行場計画は国や府市からすれば本命だったものの、「京都や神戸からは交通の便が悪いから阪神間に国際飛行場を設けろ」という主張が出現した。どこかの関西国際空港でも見た流れである。

新飛行場を誘致する為に立ち上がったのは,神戸財界の巨頭である川西清兵衛、あの二式大艇を生んだ川西飛行機や、現在の山陽電鉄の前身である兵庫電気軌道と神姫電鉄を作った神戸財界の雄である。彼は大阪と神戸の双方から交通の利便性があり、付近に障害もなく地質に問題のない場所として住吉川両岸の埋立地、もしくは武庫川尻にある川西飛行機製作所の対岸を推薦した。

……と、こう聞くと阪神案もまともに聞こえるが、どうもこれには裏があったようだ。ネット上には詳しい人もいるもので、こんな話が見つかった。

1933年9月の事,当時金融恐慌で経営難に喘いでいた橋本汽船が鳴尾浜に所有していた土地9万坪を,債権者の山口銀行が競売に掛けました。で,これを川西機械製作所(川西飛行機製作所の前身)が取得して、此処に飛行場を建設するつもりだったのです。

*18

川西は鉄道事業で別の財界人に敗北を喫し*19、川西飛行機オンリーで綱渡りをしている状況だった。それゆえに、飛行機を作って(供給)、そのまま飛ばす(需要)ことができる飛行場計画は、ウロボロス的に需要と供給が回るためかなり魅力的だったようだ。
ところがこの橋本汽船、山口銀行に負っていた97万円と言う巨額の債務を阪神電鉄の支援を受けて完済。競売に掛けられていた土地を取り戻す事に成功してしまう。まるでドラマのような逆転ホームランである。その縁で土地は阪神電鉄系列へと所有が移り、最終的には2,000戸の住宅からなる一大近郊住宅地にして売り出されることとなった。結果、川西清兵衛が夢見た飛行場計画は泡と消える。

そこで降ってきたのが、この大阪飛行場計画。川西は上述のとおり、今度こそはと建前を並べ計画を推進した。当然大阪市は反発し、計画を半分前倒して1937年新春開港とする建設予算を提案、市議会もこれを承認。対して川西は神戸実業協会会頭でもある地位を使い、大阪の経済界に連携を持ちかける。そこで話を投げ込まれた大阪商工会議所は商工省や逓信省の意向を探りにかかる。すでにわりとドロドロしてて面白いが、当時もこのへんの話は新聞沙汰になっている。

阪神国際水陸飛行場設置運動が俄然猛烈さを加え最近は川西清兵衛氏系が中心となり大阪側の住友、野村商業系等の大財閥筋をも動かし一千万円の飛行場会社設立に遮二無二突進し此処に両計画は正面衝突を演じその競争は今や激化するに至った。

大阪商工会議所では右裁断につき曩に交通部会を開き断然大阪市案を支持することの決定をなし阪神案に反対する旨神戸商工会議所側に通知(中略)川上交通部長は来る六日上京、監督実権を握る逓信当局を訪れ補助金その他について研究双方賛否の真相を探ることになった。目下の処、大阪会議所交通部側の意向は依然大阪大和川尻案支持に傾いて居る様であるが中央当局との関係研究の結果如何なる裁断に出るか判らずその裁断如何に依って双方案実現の運命に重大影響を及ぼすことになるので非常に注目されて居る。

神戸側の阪神国際飛行場案は鳴尾を第一候補地とし、現在川西飛行場の六万坪に更に約十万坪と水面飛行場を目論んで居り、その設置経営のため一千万円の会社を設立しようと云うものである。交通開設は阪神の中間にあるので旅客乗降のためには非常、便利を予想されるが大阪としては心斎橋起点とすれば十三哩となり大和川尻よりは幾分不利であるというのである。

一方大阪側の大和川尻案は大阪市の第二築港計画中に含まれて居り、昭和六年八月交通審議会に於て既に決定されて居るもので市当局では今回右案を更に三年計画に短縮しその要する費用三百万円を起債に依ることとし近く市会に提案、いよいよ工事に着手しようとするものである。

神戸新聞 1933.12.5 (昭和8)】

 *20

  • 阪神国際水陸飛行場は鳴尾競馬場跡に16万坪で建設
  • 大阪経済界は逓信省に現状を問い詰める
  • 大阪側は十年計画を三年計画に短縮し、さっさと着工してしまう考え

で問い詰めた結果、逓信省から「大阪市への国際飛行場指定は契約ではなく賛意であり、大和川尻はガスの発生が多い、翻って鳴尾も山が近くて気流が良いと言えない。逓信省としては完成の早い方を国際飛行場とする」と言う方針が出て、大阪側は「どっちもどっちなら大和川尻案で」と決定。これを受け調子に乗った大阪市は竣工時期をさらに1935年春完了へ前倒す予算措置を実行、だんだんと誘致合戦はチキンレースの様相を呈し始める。

さてそんな折、さすがに工事の竣工を前倒しまくったため、内務省に起債を申請している事を大阪市逓信省航空局へ報告しに行った。しかしここで、大阪市の計画は見事にぶっ叩かれることとなる。なんと逓信省、ここにきて「国際飛行場としては狭過ぎ。木津川尻の大阪飛行場の移転先としては認めるが、国際飛行場としては……ね?」と言い出したそうな。これには当時の海軍のクレームも関わっているとか。

そうなると、出遅れていた神戸側はその観点で攻勢を強めていくわけだが、さらに大阪側には間の悪いことが続く。

鳴尾付近の地図

鳴尾付近の地図。左側浜甲子園付近の競馬場が阪神空港候補、中央の鳴尾浜武庫川団地が最初の90万坪の土地、右の武庫川東岸が次節の大庄村の候補

鳴尾飛行場

川西飛行機の鳴尾飛行場、前図の競馬場跡地に作られた

風が吹くと桶屋が儲かる。木津川の煙突が高いと伊丹空港ができる。

そもそも木津川飛行場が問題だとしたのは航空局であり、そこで実際に飛行機を飛ばす民間飛行士達は木津川飛行場に近い大和川案に反対を唱えていた。まず最初に主力キャリアだった日本航空輸送会社は神戸案を支持。さらに1934年1月6日午後には木津川飛行場で試験飛行を行っていた日本航空輸送の夜間郵便機が近くの工場煙突に激突する事故も起き、静観していた陸軍系の操縦士団体である交星会、日本航空輸送の操縦士団体である航友会も相次いで大和川案に反対を表明。その内容はこんな感じだった。

  • 擂鉢の底に着陸する様なもの
  • 周囲の工場の煙突は危険
  • 硫酸工場の排ガスは機体の金属部を腐食する
  • セメント工場の細粉は煤煙と共に煙霧の原因となって危険極まりない
  • これは少し離れた大和川尻に移転した所で改善される訳がない 

さらに大阪側に続き操縦士団体も逓信省へ人を送り込み、「大阪に現地は与えていない」とする話を聞き出し、神戸側は勢いづく。一方の大阪市側は既に「内定」を得ていると主張。そしてここにきて、鳴尾の対岸の大庄村が第三の候補に名乗りを上げ、とうとう事態は三国志の様相を呈するハメになる。あまりに混迷が深まる事態に、かの有名な大阪市長関一氏の直談判も経て、逓信省は次の裁定を下した。

国際飛行場問題が大阪側の希望したごとく木津川尻から大和川尻に移転し他に一ケ所補助着陸場を設けることと内定した

大阪朝日新聞 1934.8.15 (昭和9)】

 *21

  • 阪神間への移転はしない
  • ただ大和川以外に大阪市か近郊に出来る限り煙霧などの障害が少ない場所を用意せよ

要するに「大和川は予備とするから、国際線を持ってこれる場所を」と要求したわけだ。とはいえそんな用地を大阪市がすぐに用意するのは困難で、逓信省大阪第二飛行場を大阪外に建設しようと模索。1936年には兵庫県川辺郡神津村、大阪府池田町、大阪府豊中市に跨る地域に建設する事が決定し、大阪市に代わって兵庫県が用地買収と整備を開始した。これが現在の伊丹空港である。いまでも手狭だうるさいだ何だと文句を言われる伊丹だが、元々が「大阪の予備滑走路」でしか無い*22わけだから、歴史的にしょうがない側面が有るわけだ。その後1939年1月17日に伊丹は大阪第二飛行場として開業*23、木津川飛行場から陸上空港の役割を継承し、木津川飛行場は水上機専用空港として再編後、前述の通り廃港となった。よく伊丹の前名が「第二」なのは「木津川飛行場があるから」と言われがちだが、つまりは伊丹に対する「第一」が大和川国際飛行場だったわけである。「兄貴分の第一が結局完成せず、弟分の第二だけで頑張った」と書くと、なんだか伊丹に感傷が湧いてくるなあ……。 

コミュ力って大事よね~まさかの東大阪案~

そうして大和川国際飛行場案がトーンダウンした大阪市

いっぽう『府市あわせ』で知られる大阪府は「大和川以外に大阪市か近郊に出来る限り煙霧などの障害が少ない場所」の捜索を続けていた。ただ大和川にまつわる神戸との泥沼の争いが相当にトラウマになったのか、この捜索は極秘裏に続けられ、案が固まったの1938年にやっと表沙汰になった。

東大阪に国際大空港
広さは五十万坪 堂々欧米に伍する
工費千万円見当、知事府会に言明

大空港「オーサカ」の夢が実現する=航空日本の驚異的躍進に伴い生産都大阪は貿易、ならびに交通上いよいよ国際エア・ポートとしての重要性を加えてきたのに鑑みて、大阪府では逓信省大阪市の協力のもとに優秀な「大阪国際飛行場」を大阪東郊に建設すべく具体的計画を進めている
右計画は用地買収など影響するところが相当大きいので極秘にされていたが、二日の通常府会質問戦で原田府議の質問に対し池田府知事より「優秀な国際飛行場が大阪にないことは誠に遺憾に思い、先般来これが設置について内々歩を進めている、しかしこれは関係するところが相当大きく、なお土地買収などの点もあるので、これ以上の説明は差し控えたいと思う」と答弁があり、ここにはじめて計画外貌の一端が僅かに明らかにされた、詳細な内容については未だ極秘であるが、仄聞するところによると用地面積約五十万坪、二箇年乃至三箇年継続事業総工費約一千万円見当、伊丹飛行場の三十六万坪より遥かに広大で羽田飛行場の五十万坪に堂々伍す優秀なもので、有力な候補用地としては大阪東郊の某地点に白羽の矢が立てられている模様である、この「大阪国際飛行場」が完成の暁は欧米各国の旅客機が頻繁に入り乱れてここを発着生産都大阪は名実共に堂々たる国際大空港として欧米各国の国際飛行場と比肩するわけであるなお同飛行場が出現すれば目下大阪市の計画により工事中である大和川尻の国際飛行場(約二十四万坪)は大阪補助国際飛行場となるものとみられている

【大阪時事新報 1938.12.3 (昭和13)】

 *24

  • 東大阪大阪府主体での国際飛行場整備
  • めちゃくちゃ極秘
  • 羽田国際飛行場と同じ50万坪
  • 大阪市が整備する大和川尻は「大阪補助国際飛行場」になる
東大阪、のちの資料から察するに現在の学研都市線鴻池新田駅あたりの陸軍盾津飛行場付近に50万坪の国際飛行場を置くという計画。まさかの第三の計画である。
まあ国際飛行場を改めて一新した計画でもって整備する、というのはわからんでもないが、こうなると東大阪大和川尻・伊丹と大阪府だけで三空港(しかも全部国際線)が揃い踏み。さらには八尾にも空港があることから、これには流石に逓信省も二の足を踏んだ。
勝手に想像すると、
 
大阪市大和川以外には見つかんねえっす」
大阪府「っす(ホントは探してるけど神戸にバレたらめんどいから極秘)」
逓信省「そうか……。じゃあ空き地が有るし、県境に作るか。よろしく兵庫県
兵庫県「え!?」
大阪府「(あ、ここええんちゃう?行けるなコレ)」
大阪府「空港作るわ!大阪市逓信省もよろしゅうに!」
逓信省「え!?」
大阪市「え!?」
兵庫県「え!?」
 
 みたいな感じだったんじゃなかろうか。あまりにも兵庫県がとばっちりすぎる。
伊丹空港はコミュニケーション不足の申し子とも言えるのかもしれない。

八尾国際空港?それとも伊丹に落ち着いて?

そんなこんなで1939年。東大阪の計画は極秘のため、どうなったのかよくわからないのだが、藤原航空局長官と関係者の会談後に、藤原氏が赤裸々に内情を語っている記事が一つ残っている。 

大阪国際飛行場は伊丹に落着こう
打合会終了後藤原長官談話発表

大阪国際飛行場敷地決定に関してはもう暫く待って貰いたい、候補地は盾津、大正村(阪神飛行学校大和川伊丹等あるが、盾津は拡張余地なく、大和川尻十八万坪も拡張の余地全然なく、それに水上機の発着場として既に充分の機能を発揮しているし将来とも水上機発着場として使用したいと思っている、防空飛行場としては五十万坪から六十万坪が必要であり国際飛行場としてどうしてもダグラス級が発着するから最低四十万坪が必要である、それに風向き煤煙、霧の関係よりみて拡張の余地ある伊丹第二飛行場に落着くのではないだろうか、伊丹の拡張に関し地元民に多少の反対もあったが国策に協力するという点で反対も解消した、大正村も拡張の余地があるが、国際飛行場としてはどうであろうか

神戸新聞 1939.5.20 (昭和14)】

 *25

  • 大阪国際飛行場の候補地は盾津=東大阪の国際飛行場、大正村(阪神飛行学校)=現・八尾空港大和川尻、伊丹
  • 東大阪は拡張の余地なし
  • 大和川尻十八万坪も拡張の余地が全然なく、水上機飛行場として機能を始めているし、将来とも水上機発着場として使用したい
  • 国際飛行場としては最低四十万坪が必要である
  • 拡張の余地がある伊丹第二飛行場が本命
  • 八尾も拡張の余地があるが、国際飛行場としては疑問

 

ここでやっと東大阪の具体的な場所が出てくる。陸軍盾津飛行場は東大阪市のトラックターミナルのあたりにあり、駅で言えば鴻池新田駅の南、荒本駅の北側にあった。これの北側はわりと農地が広がる地帯だったため、他の大阪近郊に比べれば用地買収が可能と判断されたのだろう。しかし藤原氏は「余地なし」とにべもない反応である。

次に出てくる大和川尻は、盾津飛行場に比べ「全然」とさらに取り付く島もない。大和川尻、あまりにみんなに嫌われて可哀想。

そして伊丹。いよいよここに来て第二から昇格の兆し。

そして八尾、こちらはまだ拡張の余地ありとされているが、まあ住宅街だし乗り気ではなさそう。

 

東大阪の盾津飛行場の地図

東大阪・陸軍盾津飛行場の地図

*26

八尾空港付近の地図

八尾空港の地図

*27

結局どうなったのか

 そして藤原氏の談話後、この話はパタリと資料がなくなる。理由は簡単な話で、戦争が激化したためである。その後、戦争終結後に伊丹空港は最初っからそうであったかのように拡張を重ね、因縁浅からぬ「大阪国際空港」という名称を勝ち取る。

一方の兄貴分、大和川国際飛行場はその計画が消えたという報すらなく、戦争のさなかに消えていった。ある資料*28によれば、その計画中止の日付は昭和17年(1942年)5月29日であったという。

忘れられては居ない大和川国際飛行場

大和川国際飛行場は完全に幻だが、一応忘れられてはおらず、繰り返し参考にした大正区の資料や、住之江区の資料*29にも登場する。ただ泥沼の争いや東大阪、八尾にまで触れている資料はほとんどなく、どうにも大阪の黒歴史となっているようだ。

いつかこの悲運の飛行場が、人々に愛される遺構となることを願うばかりである。

 

年表

簡単な計画変遷をおいておく。 

事柄
1929年木津川飛行場開港。
1931年南港の第二次築港計画に国際飛行場が盛り込まれる
1933年大和川尻飛行場の埋め立てに着手
同33年泥沼の争い始まる
1934年御堂筋線開業。大和川尻+補助飛行場の2港を作ることに内定
1936年補助飛行場は伊丹で建設へ
1938年東大阪の盾津に府の国際飛行場計画が持ち上がる
1939年木津川陸上飛行場廃港、大阪第二空港(伊丹)開港。本命は大阪第二(伊丹)>大正(八尾)>東大阪(盾津)>大阪第一空港(大和川尻)の順で検討中
1942年計画中止

 

余談

①伊丹の制限空域は規制緩和で金魚型になっているが、もし大阪府東大阪空港と大阪市大和川国際飛行場が両方伊丹の規則どおりの制限空域を持っていたらこうなっていた。大阪の全域に渡り高層ビルは建てられず、姫路城より高い建物が建てられない姫路市のようになっていたかもしれない。

f:id:chroniclex:20190419015819p:plain

もしも大阪府営空港と大阪市営空港があったらの図。あべのハルカスは無理だな。

京阪のアレの小ネタにも一応この空港は仕組んである。良ければ同様のネタが他にも有るので探してみてね。 

f:id:chroniclex:20190419205654p:plain

小ネタ

 

*1:大阪市大正区:大正ガイドブック (大正区のご案内>区内のスポット)

*2:木津川(大阪)飛行場跡地:空港探索・2:So-netブログ

*3:Aviation Equipment of the Pacific War|軍事板常見問題 第二次大戦別館

*4:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 港湾(8-151) 大阪朝日新聞 1927.10.12 (昭和2) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00467504&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

*5:どうでもいいけど、「イロハ」で示されているのがエモい

*6:大阪市大正区:大正ガイドブック (大正区のご案内>区内のスポット)

*7:大阪市大正区:大正ガイドブック (大正区のご案内>区内のスポット)

*8:でないと整備終了から供用開始まで丸々一年も放置されたことになる

*9:同じ滑走路1本だと、現在の神戸空港でおよそ年間2万回

*10:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(5-069)大阪朝日新聞 1938.12.21 (昭和13)

神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*11:これは陸上機はなんの問題も無いが、水上機が問題になる。当時の南港の築港計画で沖合に設ける予定の防波堤が木津川右岸から左岸に変更され、防波堤が出来上がると空港近辺の飛行艇水上機の滑水面は港湾域に取り囲まれ、内港となってしまうこととなった。こうなると水上機は船舶と衝突の危険を孕みながら離発着するか、港湾の外にわざわざ滑水して出て行ってから離水するしかなくなる。

*12:現在だとニュートラム平林駅から南港東駅までのあたり

*13:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 港湾(10-013)大阪時事新報 1932.8.18 (昭和7)神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*14:大阪市大正区:大正ガイドブック (大正区のご案内>区内のスポット)

*15:大正区の上位組織である大阪市編集の新修大阪市史第7巻では、「大和川尻北岸地先海面91万5000平方メートルの埋立予定地のうち60万平方メートルを昭和10年中に完成させて、大和川国際飛行場を建設することにしたのである」と微妙に差異がある。ここでは新聞と大正区を信じることにした

*16:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 港湾(10-013)大阪時事新報 1932.8.18 (昭和7)神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*17:「あったかもしれない日本」橋爪 紳也、2005年

*18:Aviation Equipment of the Pacific War|軍事板常見問題 第二次大戦別館

*19:播州鉄道vs神姫電鉄、というすさまじい利権闘争があった、そのうち京阪のアレで書く予定

*20:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(3-049)神戸新聞 1933.12.5 (昭和8)神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*21:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(3-103)大阪朝日新聞 1934.8.15 (昭和9)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00323244&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

*22:当時の伊丹の評はこんな感じ→神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*23:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(5-069)大阪朝日新聞 1938.12.21 (昭和13)神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*24:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(5-245)大阪時事新報 1938.12.3 (昭和13)神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*25:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(5-092)神戸新聞 1939.5.20 (昭和14)神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*26:今昔マップ

*27:今昔マップ

*28:「あったかもしれない日本」橋爪 紳也、2005年

*29:アーカイブされた住之江区の資料Wayback Machine


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